都会のハト

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 朝10時、安い喫茶店の2階から街が動き出すのを見ているのが好きで、仙台に来た3年前はよくやっていた。朝から街に繰り出す自分と同じ年代の大学生や、出張に来たサラリーマンが駅前の交差点をすれ違っていく様子は、田舎出身の自分には新鮮だった。3年が経った今の生活では、自分が交差点を歩いている側にいるようなせわしなさを感じる。

 交差点は、無数の人と確実に会っているのに、誰一人として顔を覚えていないという不思議な感覚がある。逆に、「ずっと会っていないのに、いなくなったことを覚えている人」を呼び起こす感覚がある。

 

 1年半前、仙台で髪を切ったとき、たまたま見つけた美容室で、あまりに腕のいい美容師がいたことを覚えている。心配になるくらいの手際で髪を切っているはずなのに、不安にならない確かな手さばきの女性だった。

 次に同じ美容室に行ったとき、その人はいなくなっていた。というより、美容室の美容師全員が入れ替わっていた。今の美容師は店舗に勤めるのではなく、どこかから派遣される制度なのかもしれない。店舗と人とのつながりが無いのかもしれない。と理解したのは後からだった。おいてけぼり、の変な感覚になった。

 

 1年前、打ちっぱなしのコンクリートが無骨なビルの一階に、個人経営の洋食屋を見つけた。昼も夜も温かい定食の食べられる小さな店で、本棚にはジャンプとゴルゴ13が大量に置かれたいかにもな店だった。マスターは温厚で、狭い店での長居を気にしなかったから、1人か2人でゆっくり来るのに気に入っていた店だった。

 半年前に行ったとき、店は畳まれていた。照明の付かない看板が店が閉まったことを告げていた。むき出しのコンクリートの冷たさがさらに寂しさを募らせていた。1人で切り盛りしていたあのマスターはいまどうしているのだろう。

 

 半年前、連絡が取れなくなった昔からの知り合いがいる。大学に閉塞感を感じているという彼の話に、ドトールコーヒーの陽気なラテンの音楽が場違いのように感じられたことを覚えている。とりあえず続けた方がいい、となぜかありきたりの事しか言えなかった。

 

 3ヶ月前、久しぶりに大通りを歩いていると、拉致被害者の救済を!というのぼりを掲げた団体がビラを配っていた。受け取ってみると、憲法改正!と書いてあった。この人たちはすぐにここからいなくなるつもりなのだろうと思った。どこへ向かうつもりなのだろうと思った。

 

 1ヶ月前、自然番組で都会のハトの話を見た。都会のハトは、人間の住む都市で成功している数少ない動物の一つだ。あまり考えていないような顔をしながら、お互いに食べ物の場所や量を情報交換し、最適に分散して行動するのだそうだ。実は都会は食べ物が少ないからだ。全く会わない個体同士も多いだろうに、全体が協調して行動するハトの賢さには感心してしまう。

 

 今は、せわしない中でも会える人達が多い、仙台の狭さにほっとしている。仙台は広いようで狭い町で、足を伸ばして会いに行けるこの狭さはとても心地がいい。

 将来、仙台駅前の交差点が渋谷のスクランブルに変わるかもしれない。自分が東京なのかどこなのかは分からない街に行ったとき、会えなくなった人たちとなぜか協調しているような、ハトの賢さを持つことができるのだろうかと、少し考えてしまった。